残念ながら今年はこぞって中止が発表されている吹奏楽コンクール。例年の話ですが、直前に部活指導に行き、みなさんのパート譜を見て思うことがあります。
書き込みしすぎ。
今はもう慣れてしまいましたが(それもどうかと思うけれど)、パート譜を見せてもらったら真っ黒、もしくは色ペン全色使ったのか?と思うくらいカラフルに塗りつぶされ、前衛的絵画にすら見える。そんな原型を留めていない「元」楽譜に出会うことがとても多いです。
楽曲を形成するデータを塗りつぶし、読むことが困難になったら楽譜の存在価値はなくなります。まず楽譜とは何なのかを理解していただきたので、ぜひ前回の記事「暗譜について考える」をご覧ください。
楽譜とは何か
今一度確認したいと思います。楽譜とは、作曲者が頭の中で思い描いた音楽を、第三者へ伝えるために書いたデータです。しかし楽譜は記録の方法にある程度のルールがあるために作曲者は妥協する必要があります。例えば、「大喜びのフォルテ」も「怒りに満ちたフォルテ」も「悲しみのフォルテ」も、楽譜にするとぜんぶ「f」の記号になってしまいます。したがって、楽譜だけではその作品の全てを語ることができないので、演奏者は作品に込められた作曲者のイメージやメッセージを感じ取ることが必要です。
しかし、それで終わっては演奏者は単なる「作品を再生するプレーヤー(機器)」になってしまいます。演奏者のすべきことは作品に対して(自由に)感じたことや、その作品をどのように演奏したいか(何を聴く人へ伝えたいか)、そうした意思を演奏に込めることが重要です。複数人で作品を完成させる場合は、全員の方向性を決めることも大切ですし、さらに大人数の場合はそのプロデュースを指揮者が担当します。
音楽が生き物である理由
中学生の時、指導者から「音楽は生き物だ」と言われました。その時は何を言っているのかまったく理解できませんでしたが、いわゆるクラシック音楽の作品が世界中で何度も繰り返し演奏されているのは、指揮者を含めたメンバーが違えば、作品に対する解釈も異なり、それがどんどん進化していくし、様々な解釈による「違いの良さ」を楽しめるからです。
みなさんもトランペットを始めた頃に演奏した楽譜を数年ぶりに見た時、当時では思い描けなかった様々な演奏表現が生まれてきた経験、あると思います。「中1の時のコンクール曲、もう一度演奏してみたい!」と言う声が多いのも、そうした理由からではないでしょうか。
同じ作品なのにその時によって姿形を変えていく。これはまるで感情が刻一刻と変化する人間そのものです。音楽は人間が生み出すものですから、まったく同じ演奏をすることは不可能ですし、そんなことは求められていません。まったく同じ演奏になるのでしたら、一度録音しておけばそれ以上誰も演奏する必要がありませんよね。
廊下を走ってはいけないのはなぜか
みなさんが生活しているところ、例えば学校とか仕事先とか、家でも、もしも「廊下は走らない」「挨拶は自分からする」「大きな声で喋らない」「お客様への笑顔を忘れない」「手洗い励行」「自分のものには名前を書きましょう」とか、ありとあらゆる場所に貼り紙がしてあって、それが全部決まりごと約束事だったらどうでしょうか。
ウザいですねえ。僕は何度も経験がありますが、全然見なくなるんです。だんだん壁紙のような存在になります。思考停止しているわけですね。だから貼り紙の効果がまったくない。
人間は視覚から入った情報だけでは行動に変化は起こりません。変化をさせたいならばそれらを理解する知識や経験、その意欲を持つ必要があります。例えば僕は運転免許証を持っていませんから、交通標識について学んだことが一度もないため、意味はほとんどわかりません。いや、わからないのではなく一度も知ろうとしたことがないのです。
学校で「廊下を走ってはいけない」と昔からずっと言われていますが、その理由を考えたことがありますか?では、廊下を走ることで起こり得る最悪な結末をいくつも想像してください。それらを自分が廊下を走ったことで起こしてしまった、と想像してください。いかがでしょうか。それでもあなたは廊下を走れますか?少なくとも、これまでよりは注意深くなりますよね。
人間はここまでたどり着いて初めて自分が使えるスキルとなるのです。親が「〇〇しちゃダメでしょ!」と連呼するだけでは、事故でも起こらない限り子どもは同じことを繰り返します。命令されてそれに従っているのは、意思によるものではなく、怒られるのが怖いなどの理由であり、本当の意味でそれが実行できているわけではありません。
みなさん何か言われた時に「はい」と返事しますよね。「はい」というのは「理解しました」「あなたの言うことに従います」など肯定の意味が含まれる言葉です。吹奏楽部の中には、何を言っても「はいっ!」と元気よく返事してくれるところがありますが、「あなたに指摘されたことや指示に従います」と私は捉えてしまいます。
何でもかんでも「はいっ!」と言えばその場の状況が成立する関係というのは、一方通行のやりとりです。したがって、この流れの中には「考える」「自分で研究する」という行為が含まれていません。令和になった今でも学校という教育機関の中でこれが成立してしまっているのが恐怖にすら感じます(もちろん全ての部活動がそうであるとは言っていません)。
学校ならでは
楽譜の書き込みを目を凝らしてよーーーく見てみると、その多くが命令、指示されたものをそのまま書いています。こういう書き込み何かに似ているな、と思ったら「授業のノート」でした。
学校の授業は、そのほとんどが一方通行のやりとりですね。先生が喋って黒板に書いたことを生徒はノートに書き写す。この場合のノートの役割は、復習のためです。要は読み返した時に理解できることが目的です。
一方で楽譜はいかがでしょうか。楽譜は「何度も正確に再現するためのデータ」ではなくて、「そのデータを元に演奏する」ことが目的です。そして演奏中は楽譜をじっくり見つめている余裕などありませんし、そもそも音楽は楽譜から生まれるのではなくて「楽譜を元に自分のイメージ、心」が生み出していくものです。ですから、楽譜をノートのようにびっしり書き込んだり、カラフルにする理由も意味もありません。むしろ逆効果です。
こうした楽譜の書き込みを見かけるのは、多くが学校の吹奏楽部です。多分、「ノートをキレイに書いている人のほうが良く勉強している」とする風習が学校にはあるからでしょう。確かに、そうした習慣を教育する必要性を感じている先生がいても当然ですが、それぞれには正しい使い方や意味があることを教えていかなければならないと思っています。
したがって楽譜には必要最低限の書き込み以外はしないことです。書き込みをすることでその時は良いかもしれませんが、その先、時間の経過とともにアップデートしていくはずの自分自身を書き込みによって制限させてしまいます。書き込みは少し先の未来で邪魔な存在になりかねないのです。
音楽は変化し、常に自由であるべきです。
では、「必要最低限の書き込み」とは一体何でしょうか。
それらはどのように書き込むべきなのでしょう。
一方で書いてしまうと制限されてしまうこととは一体何でしょうか。
それらを書き込むことで何が起きてしまうのでしょう。
このお話は次回以降に具体的にお伝えします。
ということでまた次回ご覧ください!
荻原明(おぎわらあきら)
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